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Shin Sugawara // 菅原真

第5章│日本の80年 ― 奇跡の持続とその影

0. 日本の80年の範囲

 ここでいう「日本の80年」とは、第二次世界大戦の敗戦(1945年)から現在までを指す。
 この期間、日本は直接的な戦争に参戦していない。
 それは世界史の文脈で見ればきわめて稀有な出来事であり、確かに「奇跡」と呼ぶに値する。
 しかし同時に、この「平和」をそのまま「平和だった」と定義することは危うい。なぜなら、その80年もまた「戦争常態の世界史」の只中にあったからである。


1. 憲法9条と平和国家イメージ

 敗戦後、日本は 日本国憲法 (1947年施行) において戦争放棄を明記した。
 これによって日本は「平和国家」として国際社会に位置づけられた。
 戦後世代の思想家 丸山眞男 (1914年–1996年) は、戦前の全体主義を批判し、戦後民主主義を「平和の土台」として称揚した。
 だがその「平和国家イメージ」は、アメリカの核抑止力に依存するという構造の上に成り立っていた。


2. 冷戦下の日本 ― 参戦なき戦争協力

 冷戦 (1947年~1991年) の時代、日本は戦場に立たなかったが、アメリカの極東戦略に組み込まれていた。

 思想家 加藤周一 (1919年–2008年) は、日本の戦後民主主義が「アメリカの傘の下」にあることを繰り返し批判した。
 つまり、日本の「平和」は世界の戦争に依存した相対的な幻影だったのである。


3. 経済大国化と戦争の不可視化

 高度経済成長(1950年代~1970年代)は「平和の果実」として語られる。
 だがその繁栄は、冷戦秩序という戦争構造の中で可能になった。
 兵器を持たず、米国に依存しながら経済発展を遂げるという日本の道は、「戦争を外注することで得られた平和」だった。
 思想家 小田実 (1932年–2007年) らはベトナム反戦運動を通じ、日本が「戦争に参加していない」という自己像を批判し続けた。


4. 平和だったのか?という問い

 1945年以降の日本を「平和だった」と言い切ることには危うさがある。

  • 米軍基地を抱え、常に戦争準備の一部を担ってきた。
  • 冷戦構造の恩恵を受け、経済発展を遂げてきた。
  • 湾岸戦争(1990年~1991年)以降は自衛隊が後方支援として海外に派遣されるようになった。

 つまり、日本の80年は「戦争に直接参戦しなかった」のであって、「戦争と無縁だった」わけではない。
 それを「平和」と呼ぶとき、私たちは戦争の常態を見えなくしてしまう。


5. 平和幻想の象徴としての日本

 日本の戦後80年は、確かに人類史における稀有な「戦争不参加の記録」である。
 だがその奇跡的な持続は、国際的軍事秩序に依存した「平和幻想」 でもある。
 もしこの幻想を「自明の平和」として誇るなら、私たちは再び戦争常態の世界史を見失う。
 日本の80年は「平和の証拠」であると同時に、「平和幻想の象徴」でもあるのだ。


6. 日本の80年を位置づける年表

  • 1945年: 日本の敗戦、第二次世界大戦終結。
  • 1947年: 日本国憲法施行(戦争放棄を明記)。
  • 1950年~1953年朝鮮戦争 ― 日本は兵站基地として機能。
  • 1955年~1975年ベトナム戦争 ― 在日米軍基地から出撃。
  • 1990年~1991年湾岸戦争 ― 日本は資金支援と自衛隊派遣で関与。
  • 2001年~現在対テロ戦争 ― 自衛隊の海外派遣が常態化。

7. 次章への予告

 次章では、戦争を思想的に総括する。
 ホッブズ (1588年–1679年)シュミット (1888年–1985年)アーレント (1906年–1975年) らの議論を参照し、日本の経験を思想的に照射することで、平和の脆さと奇跡性を再定義する。


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