Logoseum│博語館

Shin Sugawara // 菅原真

第4章│現代 ― 戦争主体の死と社会的戦争の誕生

0. 現代の範囲

 ここでいう「現代」とは、第一次世界大戦の勃発(1914年)から現在に至るまでを指す。
 この時代は、国家が行う戦争の極点であり、同時にその終焉の始まりでもあった。
 第二次世界大戦と冷戦を経て、国家間の全面戦争はほぼ不可能となり、戦争は姿を変えて社会の内部へと浸透していく。

 20世紀は「人類史上最悪の戦争の世紀」であると同時に、「戦争の主体が崩壊し、暴力が社会に分散した世紀」でもあった。
 「対テロ戦争」はその転換点であり、国家間戦争の導火線であると同時に、戦争が無限に継続する構造を生んだ。

 こうして現代の平和は、もはや戦争の対極ではなく、戦争が透明化した状態として成立している。
 平和は幻影にすぎず、戦争はその形を変えて日常の網目の中で呼吸を続けている。


1. 国家間戦争の極点と終焉(1914–1945)

 第一次世界大戦 (1914年~1918年) は、近代国家が準備してきた総力戦のシステムが初めて全面的に作動した戦争だった。徴兵・産業動員・宣伝報道――国家そのものが戦場と化した。
 続く 第二次世界大戦 (1939年~1945年) はその極限であり、ホロコーストと原子爆弾投下という人類史の暴力的頂点を刻んだ。

 思想家 ハンナ・アーレント (1906年–1975年) は『全体主義の起源』において、この戦争が狂気ではなく「凡庸な服従の積み重ね」によって遂行されたことを明らかにした。
 戦争は異常ではなく、制度と官僚制が人間を兵器化した結果として起こったのである。

 この段階で、国家は自らを守るための戦争を遂行する一方で、その戦争によって自らをも破壊する存在となった。
 国家間戦争は、この時点で物理的にも倫理的にも限界に達した。


2. 冷戦 ― 戦争の制度化と代理化(1947–1991)

 第二次大戦後、世界は「平和の時代」に入ったと語られた。だが実際には、戦争は制度の中に埋め込まれ、より安定して継続されるようになった。
 冷戦 (1947年~1991年) とは、戦争を中断するための仕組みではなく、戦争を恒常化する新たな構造である。

 アメリカとソ連は核抑止という名のもとで常に緊張を維持し、朝鮮戦争ベトナム戦争ソ連のアフガニスタン侵攻 といった代理戦争を繰り返した。
 ここで戦争は「宣戦布告のある出来事」から、「国家秩序を維持する日常的行為」へと変化した。

 政治哲学者 カール・シュミット (1888年–1985年) が「政治の本質は友/敵の区別にある」と述べたのは、この時代を最も端的に表す。
 冷戦構造はまさにこの友敵関係の巨大な再演であり、戦争は抑止の名の下に持続する制度となった。
 つまり、戦争は国家の外でなく、国家の中に組み込まれたのである。


3. テロとの戦い ― 国家の外に生まれた戦争(2001–現在)

 1991年、冷戦が終結しても戦争は終わらなかった。
 それどころか、より曖昧で終わりのない戦争が始まった。
 2001年の同時多発テロ は、国家間戦争の時代が完全に終焉したことを告げる出来事であり、同時に「無主体の戦争」が誕生した瞬間でもあった。

 テロリズムは国家による戦争の副産物でありながら、国家が想定する“敵”という枠組みそのものを無効化した。
 「対テロ戦争」はその矛盾の象徴である。敵がどこにいるのか、いつ終わるのか、誰が勝つのか——何も定義できないまま、戦争は永続化する。

 国家はもはや戦争を遂行する主体ではなく、戦争を維持する装置そのものとなった。
 戦争の目的は勝利ではなく、秩序の維持へとすり替えられたのである。
 こうして、国家の死と戦争の分子化が同時に進行した。


4. 社会の自己戦争化 ― 暴力の分散構造

 21世紀の戦争は、もはや軍事では説明できない。
 戦争は経済・情報・テクノロジー・文化の中に溶け込み、社会そのものが戦場となった。

  • 経済戦争――制裁・関税・通貨政策が、戦争の代替手段ではなく戦争そのものとなった。
  • 情報戦争――メディアとSNSが、意識を操作し、人々を「敵」と「味方」に分断する。
  • サイバー戦争――通信・選挙・インフラを狙う不可視の攻撃が、恒常的な戦場を形成する。

 哲学者 ミシェル・フーコー (1926年–1984年) は「権力は抑圧ではなく、社会の網目を通じて機能する」と述べた。
 現代の戦争はまさにこの権力のかたちを引き継いでいる。
 暴力は特定の主体によって行使されるのではなく、社会の流れそのものとして拡散し続ける。

 いま私たちが行う消費、発言、クリック、選択のすべてが、何らかの形で戦争の構造に接続されている。
 現代の戦争は、社会の自己維持システムの中で再生産される。


5. 平和幻想の完成 ― 戦争の透明化

 このようにして、平和はついに「戦争の対極」ではなくなった。
 戦争を管理し、隠し、見えなくすることこそが、現代の平和の本質である。

 国連や国際条約、経済協定や人権宣言は、戦争を止めるための装置であると同時に、戦争を秩序の中に閉じ込めて永続させる仕組みでもある。
 戦争は非軍事化され、透明化されたことで、誰もそれを戦争と呼ばなくなった。

 現代の人間は、戦争を見ないことによって戦争を支えている。
 「平和」とは、暴力の存在を忘れることで維持される仮面である。
 戦争の隠蔽とは、戦争の進化形なのだ。


6. 現代主要戦争の年表(思想史視点)


結語 戦争は死に、暴力は社会となった

 国家間戦争の時代は終わった。
 だが戦争は終わらない。形を変え、社会の隅々に拡散し、個々の生活と意識にまで染み込んでいる。
 戦争はもはや制度ではなく、社会の呼吸であり、情報の流れであり、存在の摩擦である。

 アーレントの言う「凡庸な悪」は、いまやあらゆる日常行為の中に潜む。
 シュミットの友/敵の区別は、アルゴリズムとSNSが自動的に再生産している。
 フーコーの権力論は、ネットワーク時代の戦争構造として現実化している。

 現代とは、戦争が死に、暴力が社会そのものへと変態した時代である。
 次章では、この構造の中で奇跡的に「戦争をしない」状態を維持してきた日本を取り上げ、その平和が本当に平和なのか、それとも新しい「隠蔽された戦争」の形なのかを問う。


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