Logoseum│博語館

Shin Sugawara // 菅原真

序章│悪の地図とは

― なぜ「悪」を地図に描き直すのか


1. 悪の伝統的理解

 人類の歴史を振り返れば、悪は常に存在してきた。しかしその姿は一様ではなく、時代や状況によって異なる相を見せる。
 伝統的な哲学や法学は、悪を「故意 or 過失」という二分法で扱ってきた。つまり、悪意を持って実行したのか、それとも予見できずに過ちを犯したのか。この区別は裁判や倫理議論の基盤となり、今日でも生き続けている。


2. アーレントと「凡庸な悪」

 20世紀、ハンナ・アーレントがアイヒマン裁判を通じて提示した「悪の凡庸さ(the banality of evil)」は、この古典的区分では捉えきれない悪の姿を突きつけた。
 アイヒマンは怪物ではなく、命令を機械的に遂行した「普通の人間」だった。そこに潜むのは、殺意ではなく思考の欠如である。この発見は「悪」とは必ずしも意図的なものではなく、無自覚・思考停止・習慣化の中にも生じることを示した。

 ハンナ・アーレントの思想は、ハンナ・アーレント(Wikipedia) を参照すると、その背景が理解できる。また、彼女の代表的著作『エルサレムのアイヒマン』は、アイヒマン裁判(Wikipedia) をめぐる考察から生まれた。


3. 悪を「地図」に描く試み

 もし悪が「意図的な加害」と「凡庸な思考停止」というふたつの姿を持つなら、その間にどのような地形が広がっているのか。
 悪を単純な二分法ではなく、多様な座標の上に配置し直すことで、人間と社会をより鮮明に読み解けるのではないか。

 本シリーズ 「悪の地図(Map of Evil)」 は、その試みである。

 私は悪を三つの軸――

  1. 故意 or 過失(意図したのか、予測できなかったのか)

  2. 自覚 or 無自覚(自分が悪を行っていると認識しているのか)

  3. 主体 or 客体(自らの意思で選んだのか、命令や制度に従ったのか)

    ――によって分類し、立体的な地図を描く。


4. 内面的ネオテニーという概念

 その中で、私は特に 「内面的ネオテニー(内面的幼形成熟, Inner Neoteny)」 という概念を導入する。
 外見は成熟していながら、内面的には未成熟のまま固定化された存在。思考・予測・想像力を欠き、凡庸にして危険な「空洞化した人間」である。
 これはアーレントの「凡庸な悪」を現代的に言い換えるための概念であり、人間性の不在がいかにして悪を生み出すかを示す言葉である。


5. 日常に潜む悪

 「悪の地図」は、法廷や戦場だけでなく、職場や家庭、日常の会話にも潜む。
 持ち歩く傘の先端に他者への危険を想像できない人、快適さ確保のために足を踏みしめ譲らず電車の乗降の妨げになる通勤中の人、惰性に従い他者への迷惑や危害を顧みない言動を続ける人――彼らはすべて「内面的ネオテニー」の徴候を帯びている。
 そして私自身もまた、この座標の中に落ちる危険から逃れられない。


6. 本シリーズの展望

 本シリーズは、アーレントとアイヒマンを出発点に、戦争リーダーから振り込め詐欺、そして日常の凡庸さまで、悪の多様な形を地図上に描き出す試みである。
 目指すのは単なる批判ではなく、人間性を失わずに生きるために、悪の地形を理解することである。


📑 悪の地図 目次