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Shin Sugawara // 菅原真

第7章│日常と凡庸な悪 ― 私たちの内なる空洞

1. 凡庸な悪は日常に潜む

 「悪」と聞くと、多くの人は犯罪や戦争のような極端な事例を思い浮かべるだろう。
 しかしアーレントが指摘したように、悪は日常の中に潜み、平凡な行動の中から立ち上がる。
 特別な怪物ではなく、思考を止めた平凡な人間の行動が、社会を蝕んでいく。


2. 職場に潜む凡庸さ

 日常の中で見かける凡庸な悪は、必ずしも悪意に基づくものではない。
 例えば職場では、次のような姿が繰り返されている。

  • 報告書を読まずに承認する上司
     → 組織の決定を形骸化させ、後のトラブルを招く。

  • 会議で誰かが意見を出しても、空気を乱したくないから沈黙する同僚
     → 誤った方針がそのまま進行する。

  • 自分の仕事範囲にしか関心を持たず、隣の席の助けを見て見ぬふりをする社員
     → チームの信頼関係が損なわれる。


停滞型ネオテニー社員

 職場には、単なる一度の過失ではなく、改善を放棄したまま同じ過失を繰り返す社員も存在する。
 例えば、提出ドキュメントへの必須内容をたびたび漏らし、他部署から繰り返し差し戻されても改善しない。
 彼は罪悪感を抱くこともなく、他人の時間を奪っている事実を認識しない。

 これは偶発的な不注意ではなく、慢性化した過失であり、無自覚と無責任が固定化した姿である。
 三軸で見れば「過失 かつ 無自覚 かつ 客体」に属し、まさに 内面的ネオテニーの典型といえる。

 このような停滞型の凡庸さは、周囲の労力を消耗させ、組織全体を静かに蝕んでいく。
 悪意はなくとも、思考停止を続けること自体が悪として作用するのである。


組織の責任

 問題は個人だけにとどまらない。

  • 同じ過失が繰り返されても、誰も本気で指導しない。
  • 改善がなされなくても、人事評価に反映されない。
  • 責任が曖昧なまま、周囲が尻拭いを続ける。

 このような放置は、組織自体が「無自覚な客体」と化していることを意味する。
 本来ならば、指導のプロセスを明確にし、改善が見られなければ評価に反映させる仕組みが必要だ。

 「停滞型ネオテニー社員」と「放置する組織」が結びつくとき、凡庸な悪は固定化され、組織文化そのものに沈殿する。
 悪は個人の資質ではなく、個人と組織の結合によって強化される構造的現象へと変わるのだ。


3. 家庭に潜む凡庸さ

 家庭というもっとも身近な場にも、凡庸な悪は潜んでいる。

  • 子どもの問いかけを「忙しいから後にして」と繰り返す親
     → 子どもの関心や感情を軽視し、対話の回路を閉ざしてしまう。

  • 家事を「自分の役割ではない」と言って手を出さない家族
     → 負担が一人に集中し、関係が歪む。

  • 家庭内の不正や不健全な習慣を「昔からそうだから」と放置する態度
     → 問題を直視せず、悪循環を再生産する。


4. 社会生活に潜む凡庸さ

 社会全体の場面にも、凡庸な悪は浸透している。

  • 電車やバスで体調の悪そうな人がいても、誰も声をかけずスマホを見続ける
     → 個人の沈黙が集まることで、公共空間の倫理が失われる。

  • 選挙で「どうせ変わらない」と投票を放棄する
     → 無自覚の無関心が制度を形骸化させる。

  • 誤情報を事実確認せずにSNSで拡散する
     → 想像力の欠如が社会不安を拡大する。

 これらは一人一人の「ちょっとした思考停止」にすぎない。だが積み重なれば、社会全体を蝕む「凡庸な悪」へと転じる。


5. 凡庸さの本質

 これらの行動に共通するのは、未来を予測する想像力の欠如と、責任を自分の外に置く姿勢である。

  • 「たぶん大丈夫だろう」
  • 「誰かが修正するだろう」
  • 「自分が口を出す立場ではない」

 こうした小さな思考停止が積み重なると、社会は静かに空洞化していく。


6. 悪の地図における位置

 三軸モデルで日常の凡庸さを座標化するなら:

  1. 故意 or 過失過失。意図的に害を与えるわけではない。
  2. 自覚 or 無自覚無自覚。自分が組織や人間関係を損なっていることに気づかない。
  3. 主体 or 客体客体。状況に流され、指示や慣習に従うだけ。

👉 つまり、日常に潜む凡庸さは 「過失 かつ 無自覚 かつ 客体」 の象限に位置づけられる。


7. 私たち自身の中に

 これらは特定の誰かだけの問題ではない。
 私たち自身もまた、沈黙や見過ごし、思考停止を通じて凡庸な悪に加担してしまう。
 日常の中で「少し考えることをやめる」瞬間こそが、悪の入り口となる。


8. 第8章への橋渡し

 これまで見てきたように、職場・家庭・社会という日常の場には、凡庸な悪が静かに潜んでいる。
 それは「過失 かつ 無自覚 かつ 客体」という典型的な象限に当たるが、悪の全体はそれだけではない。

 現実の人間は、時に「主体」でありながら誤った選択をしたり、「無自覚」でありながら故意に近い行為に手を染めたりする。
 つまり、悪は単純にふたつの極端に収まるものではなく、三軸の掛け合わせによる8象限として広がっている。

 次章では、この8象限を体系的に整理し、悪の全体像を見渡す「悪の全体地図」を提示する。
 凡庸な悪も、意図された悪も、そしてその中間にある曖昧な領域も含めて、地図として描き出すことで、人間社会に潜む悪の多層性を明らかにしていく。


📑 悪の地図 目次