Logoseum│博語館

Shin Sugawara // 菅原真

第5章│悪の混成構造 ― 歴史的大犯罪と日常的犯罪

1. 混成構造という視点

 ここまで、本稿は「内面的ネオテニー」と「意図された悪」をそれぞれ独立した類型として扱ってきた。だが思想的に重要なのは、これらが別個に存在するわけではないということである。現実の悪は単発の異常ではなく、むしろ複数のあり方が噛み合い、補完し合って初めて大きな力を得る――それが本章が扱う「混成構造」である。

 振り込め詐欺や組織犯罪の典型を見ればわかる。頭脳が仕組みを組み立て、日常的な手続きがそれを回し、現場の末端が手を動かす。各部分は質が異なり、倫理的な位相も異なる。だが相互に結びつくことで、個々の小さな善悪判断の枠外で巨大な害が生まれる。ここで問いたいのは単なる責任追及ではない。どのようにして異なる「悪のあり方」が結合し、制度的に強固な装置へと化すのか――その地形を描くことだ。


2. リーダーの意図された悪

 振り込め詐欺のリーダーは、三軸で言えば 故意 かつ 自覚 かつ 主体 に位置する。彼らは欺罔の仕組みを設計し、役割を配し、全体の論理を整える。被害者の破滅は単なる副産物ではなく、計算の一部として折り込まれている。ここにあるのは、知性と判断力が悪に向けられた場合の冷徹さだ。

 思想的に重要なのは、この種の「意図された悪」が持つ二重性である。ひとつは合理性の外衣をまとっていること(「効率」「成果」「秩序」)――他者の苦痛は戦略的コストに還元される。もうひとつは制度化の能力だ。リーダーは単発の暴挙ではなく再現可能な仕組みを作り、悪を持続可能にする。

 介入の場所はここにある。大義の語りを解体し、制度設計そのものに倫理的な検査を挿入すること。言い換えれば、理念の語りと制度の設計を分離して検証する文化的な技術を育てることが必要だ。


2-A. 共犯的官僚(中間Ⅰ)

 三軸で言えば 故意 かつ 自覚 かつ 客体 に近い位置に落ち着くのが、中堅の実務者や「共犯的官僚」である。彼らはリーダーの意図を理解し、遂行のための手続きや書類を整える。自らが全体の正当性を疑うことは稀ではなく、むしろ命令や役割を通じて自分の行為を正当化する術を身につけている。したがってその行為は故意の色彩を帯びるが、主体性は業務の枠内に閉じ込められ、責任が分散されやすい。

 思想的に重要なのは、彼らが「制度のグリップ」を作る点である。リーダーの設計を現場で恒常化させるのは、往々にしてこの層の細やかな作業と合理化だ。介入点はここにある。個々の職務を倫理的に問い直す場、内部告発の保護、職務と良心の衝突を可視化する制度的仕組みが、リーダーの設計を無効化する鍵となる。


2-B. 言説の職人(中間Ⅱ)

 三軸的には 故意 かつ(場合により)無自覚 かつ 主体 に近い振る舞いを示すのが、言説によって行為を正当化し、他者を動かす「言説の職人」である。彼らは宣伝文句、儀礼、物語の枠組みを整え、欺瞞を意味づけして参加者の視座を変える。自らは高潔な使命を信じることもあるため、行為を悪と認識しにくいが、結果的には組織の暴力や搾取を正当化する中核となる。

 この層の危険性は、悪の心理的“翻訳”を担う点にある。リーダーの計算を大衆の受容へ橋渡しすることで、凡庸な実行者が自らの行為を「正しい」と思い込む土壌を作る。介入は言説そのものへの応答である。対話の場を開き、反証可能性を保証する公共的批判空間、教育による言説の読み解き能力の育成が、彼らの正当化力を弱めることに寄与する。


3. 末端の凡庸な悪

 それに対して電話をかける末端の実行者や、口座を提供する者は多くの場合 過失 かつ 無自覚 かつ 客体 に収まる。彼らの行為は一見ちっぽけで、日常の一断片でしかない。「電話するだけ」「指示どおり動くだけ」という言い訳は、実際には自分が何に加担しているかを深く考えないことを示している。

 ここにあるのは、アーレントが指摘した「凡庸さ」である。悪は目に見える凶行だけでなく、手続きの慣習と注意力の欠如によって日常化する。末端はしばしば自らを被害者あるいは無力と認識し、自己内省が働かない。そのため、個々の責任は見えにくいが、集合すると巨大な流れを作る。

 思想的に注目すべきは、彼らが必ずしも「悪意」を持っていない点だ。だからこそ、教育や想像力を刺激する介入――相手の顔と物語を想像させる訓練、手続きの倫理的再照射――が効く余地を残す。


4. 悪の結合点

 振り込め詐欺という事例は、リーダーの意図された悪と末端の凡庸な悪が噛み合うことで成立する。リーダーが設計する論理と、末端が遂行するルーティンが結合する。どちらか一方が欠けても、同じ規模の被害は生まれない。

 この結合はふたつの方向で成立する。上からの押し付け(仕組みの有効性)と下からの受容(慣習の容認)である。前者は設計の精緻さ、後者は日常の無自覚さが強度を決める。だから、責任追及だけでなく結合の回路自体に手を入れることが、構造的な解体へとつながる。

 ――言い換えれば、意図された悪は凡庸な悪を必要とし、凡庸な悪は意図された悪の器として利用される。そこにこそ「混成構造」の本質がある。


5. 三軸モデルでの位置関係

 本章での中心的地図を再確認する。

  • リーダー → 故意 かつ 自覚 かつ 主体
  • 末端実行者 → 過失 かつ 無自覚 かつ 客体

 同一の組織の内部に、これら異なる座標が同時に存在し、役割分担という形式で結びつく。したがって「悪の地図」は一地点のラベリングではなく、複数の座標の重なりとして読むべきである。政策や裁判の現場で単に「誰が悪か」を問うだけでは、この重なりを見落とす。問題は、どの座標に何が留まっているか、そして座標間の結合をどのように切り離すかである。

 さらに、リーダーと末端の二極だけでなく、振り込め詐欺の現場には中間的な類型も存在する:

  • 過失・自覚・主体 ― 「段取り役の若頭」:振込先や受け子のシフトを自ら調整するが、被害の全体像や深刻さを読み違える。自覚はあるが判断の誤りが続き、詐欺の持続に寄与する。

  • 過失・自覚・客体 ― 「葛藤する受け子」:自分の行為が犯罪であると理解しつつも「怖くて抜けられない」「仲間に従うしかない」と考え、罪悪感を抱えながら従属する。自責の念を抱きながらも、組織の歯車に留まる。

 これらの中間層が存在することで、リーダーの意図と末端の凡庸さの間が橋渡しされ、組織的悪は一層強固に固定化される。したがって解体のためには、この中間層への介入点を見極めることが不可欠となる。


6. 悪の多層的連鎖

 振り込め詐欺に限らず、組織犯罪や国家犯罪はこの混成構造を持つ。例示すれば、独裁者とその側近(意図された悪)、官僚や兵士(凡庸な悪)、それを黙認する市民(無自覚の悪)――こうした層が連鎖して大規模な害を生む。

 この多層性が意味するのは、介入の多点化である。トップを罰するだけでは十分ではない。中間の制度、日常の慣習、そして個々人の想像力と責任感――それぞれに固有の介入点が必要だ。思想的には、われわれは悪を「断片的な異常」としてではなく、「層状に組み合わされた現象」として理解し直すことを求められている。


7. 次章への橋渡し

 次章では、この「混成構造」を裁判や法的判断の文脈へとつなげる。「裁判と悪の地図」は、故意・過失の単純な区分では説明できない構造的なズレをどのように法制度が扱うべきかを考える章である。私たちの問いは単純だ:法は個人の行為を裁くと同時に、悪を可能にする結合――制度と慣習、物語と手続き――をどのように露わにし、変えることができるのか。


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