第3章│内面的ネオテニー ― 空洞化した人間
執筆日: 2025-09-11
公開日: 2025-10-04
1. 概念の導入
前章で提示した三軸モデルをさらに深める鍵が、「内面的ネオテニー(内面的幼形成熟, Inner Neoteny)」 である。
ネオテニーとは本来、生物学で「幼形成熟」と呼ばれる現象を指す。幼体的特徴を残したまま成熟する状態で、人類はその典型とされてきた。
私はこの言葉を転用し、外見は大人でありながら内面的成熟に至らない人間を表す概念として使う。
それは単なる「未熟」ではなく、思考・予測・想像力が固定化され、更新されない状態を意味する。
2. アーレントとの接続
アーレントが見抜いた「悪の凡庸さ」は、思考停止の中で悪が生じるという発見だった。
内面的ネオテニーは、この「凡庸さ」をさらに存在論的に言い換える概念である。
- 思考の放棄 → 他者への想像力の欠如
- 予測の欠如 → 自分の行為の帰結を見通せない
- 空洞化 → 人間でありながら人間性を失った状態
アイヒマンはその典型例であり、凡庸な悪を現代的に再定義する言葉として「内面的ネオテニー」が浮かび上がる。
3. 物理的予測の欠如
内面的ネオテニーは、物理的な予測力の欠如に現れる。
例えば、傘を持って歩くときに先端が後ろの人に当たる危険に気づかない。
これは一見些細だが、「自分の行為が他者に与える結果を想像できない」という欠如の典型である。
この欠如が積み重なると、公共空間において他者を無視する行動が繰り返され、社会全体の安全と信頼を損なう。
4. 心理的予測の欠如
さらに深刻なのは、心理的な予測能力の欠如である。
自分の言葉が他人にどう響くかを想像できない。
会話において相手の主題を受け取れず、ひとつ目の返事から自分の言いたいことだけを返してくる。
ここでは他者の内面が完全に遮断され、社会的共感の回路が閉ざされている。
この心理的予測の欠如は、人間性の空洞化を端的に示す現象である。
5. 日常に潜む内面的ネオテニー
私は様々な職場で、この特徴を持つ人々を観察してきた。犯罪や大規模な不正ではなく、日常的な行動の中に「空洞化した人間」の姿が表れている。
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モンスター上司 会議のたびに「俺が若い頃は」と昔話を始める。状況の変化や部下の現実には無関心で、自分の経験談を絶対的基準として押し付ける。部下が意見しても聞き流し、数分後に同じ内容を「自分の提案」として語り直し、得意げになる。
→ 他者の声を想像できず、自分の語りだけが世界を構成する。心理的予測力と共感力の欠如。 -
モンスター部下 注意されると逆ギレする若手社員。遅刻やミスを指摘されても「自分は悪くない、環境が悪い」と言い張り、周囲が気を遣って修正する。自分の態度がチーム全体の雰囲気を悪化させることに気づかず、自己防衛だけを繰り返す。
→ 未来を予測できず、関係性への影響も想像できない。主体性を持たない「被害者意識の客体」。 -
存在するだけの社員 毎日出社はするが、机に座って腕を組み、ほとんど動かない。与えられた仕事も最低限しかこなさず、雑談や冗談には一切反応しない。外部の清掃員や通りすがりの人には異常に注視するが、業務の流れや組織の目的とは接続しない。
→ 他者との回路を閉ざし、ただ「そこにいるだけ」で関与しない。社会的共感の完全な空洞化。
これらの姿はいずれも外見は「成熟した大人」に見えるが、内面的には未成熟のまま固定化している。
内面的ネオテニー(内面的幼形成熟, Inner Neoteny) の日常的な現れであり、悪の凡庸さを支える基盤でもある。
凡庸さは歴史的犯罪の背後にだけ潜むのではない。日常の会議室やオフィスの隅々にすら、静かに息づいているのだ。
6. 悪の地図における位置
三軸モデルにおいて、内面的ネオテニーは典型的に:
- 過失 かつ 無自覚 かつ 客体的
という座標に位置づけられる。
つまり、意図せず、予測せず、命令や環境に従って動く存在。
だがその凡庸さこそが、組織的犯罪や社会的災厄の歯車を回す力になる。
7. 現代社会への警鐘
内面的ネオテニーは、過去の歴史だけでなく現代社会にも広がっている。
SNSでの同調、組織での形式的な遵守、公共空間での無関心。
いずれも「人間でありながら人間性を欠く」徴候を帯びている。
「悪の地図」における内面的ネオテニーは、私たち自身の中にも潜み、凡庸な日常の中から悪を生み出す可能性を示す。