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Shin Sugawara // 菅原真

第3回│終わらぬ神話、もはや神話にあらず──『ドラゴンボール』に見る鳥山明の挑戦とその限界

完結点としてのフリーザ編

 『ドラゴンボール』は、孫悟空の少年から大人への成長物語として明確にデザインされていた。特にピッコロとの共闘、そしてフリーザとの決着により、孫悟空のキャラクターアークは完璧なまでに完成していた。作品のテーマ性とストーリー構成の観点から見れば、この時点こそが物語の自然な寿命であった。


鳥山明が示した挑戦

 しかし、作者の鳥山明は物語を続ける中でも常に新たな挑戦を続けていた。その最大の挑戦は、【戦闘の描写力と表現の革新】である。鳥山は新たな敵やキャラクターの登場によって、これまでの常識を超える斬新なバトルシーンを創出し続けた。特に、『ドラゴンボール』が世界的な人気を獲得した背景には、彼が追求した視覚表現の圧倒的な革新性がある。この点は紛れもなく鳥山明の功績であり、最大限の賞賛を与えるべきだ。


神話性から【戦闘カタログ】への転落

 だが皮肉にも、鳥山が追求したバトル表現の革新性が、商業的延命措置としてのキャラクターや敵の【インフレ化】を助長してしまった。その結果、物語の神話的要素は希薄化し、核心的なストーリーラインの統一性が崩壊。【戦闘カタログ】として、単なる強さの比較と繰り返しの構造に陥ってしまった。


商業主義との葛藤と限界

 鳥山明自身もまた、『ドラゴンボール』を一度終わらせようとする意思を示した。しかし、商業的な要請や読者からの絶え間ない要望により、この意図は幾度も阻まれた。この葛藤は明確に作家としての自由と創造性が市場の論理に屈服した事例であり、創作者が商業主義に翻弄される構造的問題を象徴している。


結論:終わる勇気が示す真の挑戦

 『ドラゴンボール』の商業的成功と鳥山明の革新的挑戦は称賛に値する。しかし、物語が【終わるべき地点】を超えて延命されたことで、結果として作品の芸術的価値は損なわれた。鳥山が真に挑戦すべきだったのは、【終わる勇気】だったのかもしれない。物語の成熟と文化的意義は、その寿命を自然に全うさせる作家の決断にこそ宿るのだ。


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