非効率を味わう食卓│鱗のスープが教える生の感覚
執筆日: 2025-06-06
公開日: 2025-06-06
非効率との格闘
鱗が口の中に残り、不快感とともに何度も取り出す。舌で探り当てては指先でつまみ出す行為は、何とも非効率で面倒だ。しかし、この魚のアラを野菜・薬味と一緒に煮込んだスープとの格闘は、無駄や不便を一掃した現代のスムーズで無機質な日常を揺さぶる、生々しい感覚を私に呼び起こす。
整えられた世界の虚しさ
私たちは極限まで効率性を求める世界に生きている。スーパーの棚には骨を抜かれ、美しく整形された魚や肉、洗浄済みの野菜が並ぶ。【タイパ】という名目の下で、非効率な時間は排除され、食事すら情報やエンターテインメントのお供としてしか認識されなくなった。動画やSNSを片手にする【ながら食事】のせいで、食べるという根源的な行為への意識が希薄になっている。
原始的感覚の再覚醒
そんな中で、この鱗の混じるスープは強烈な異物感をもたらし、一瞬にして鋭敏な感覚を呼び覚ます。異物を口から排除するための本能的な集中力は、かつて人間が生存のために持っていた原始的な習性を思い出させる。祖先たちは、魚を捕り、鱗を取り除き、肉を噛みしめるという、非効率だが必死な営みを行ってきたのだ。
効率性の先にある虚無
現代人は、生きるという原初的な感覚から大きく乖離してしまった。【効率的に処理される食事の末路】は充実感ではなく虚無に近い。効率という名の下で【食べながら】無限に与えられる情報を浴び、自分の好みを追い求めては溺れ、他者との競争からくる曖昧な焦燥感に追い立てられるばかりである。
鱗の混じるスープとの非効率な格闘は、そんな私たちに立ち止まり、生の実感を再確認する貴重な時間を提供する。
不便さがもたらす生の実感
人生は本来、不便や非効率さと隣り合わせだ。その事実を鱗だらけのスープという小さな不便を通じて再発見する行為は、私たちが生来持っていた生命力を呼び覚ます儀式のようなものかもしれない。現代という時代へのささやかな抵抗として、不便を愛でる時間をあえて持つことに、私は深い意義を見出している。