コラム│仕事と趣味は酩酊の対象か?
執筆日: 2025-09-04
公開日: 2025-09-08
酩酊と聞けば、多くの人はまず酒やギャンブル、性愛のような即物的快楽を思い浮かべるだろう。だが、人間が没入する対象はそれに限られない。むしろ日常を支える「仕事」や「趣味」こそ、酩酊の対象となりうるのではないか。
その典型例として大谷翔平を挙げることができる。彼は野球に人生を捧げ、その日々を徹底した規律で組み立てている。睡眠、食事、練習――それらすべては野球のために最適化されている。傍目には苛烈に映る生活も、彼にとっては酩酊そのものであり、「生きること」と「野球をすること」がほとんど同義になっている。
もっと一般的に言えば、この没入の構造はあらゆる人に当てはまる。ある人は夜明け前から釣り竿を携え、ある人は列車を追い続け、ある人は創作に没頭して食事を忘れる。そこには「社会的に仕事と呼ばれるもの」と「趣味と呼ばれるもの」との区別はあるにせよ、根本にあるのは「時間を忘れるほどの没入」という同じ力学である。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』において幸福(エウダイモニア)を「魂の活動」と定義した。すなわち生を満たすのは静的な快楽ではなく、対象に向かう動的な営みである。また現代心理学者チクセントミハイは「フロー体験」として、挑戦と技能が釣り合った瞬間に人は最も幸福を感じると述べた。これらはいずれも「没入=酩酊」が人間存在を支えることを示唆している。
むしろ重要なのは、「仕事」と「趣味」という外的ラベルではなく、自らがどの対象に酩酊できるか、である。大谷にとってそれは野球であり、他の人にとっては芸術、学問、あるいは一見取るに足らない趣味かもしれない。対象の大小にかかわらず、人間を生き生きとさせるのは、この「酩酊に至る経験」そのものなのである。
参考(引用した著作)
- Aristotle, Nicomachean Ethics.
- Csikszentmihalyi, M. (1990). Flow: The Psychology of Optimal Experience.
1. 野球――人生を賭ける酩酊の道
野球は日本において、少年期から老年期まで人を酩酊させる典型的な対象である。
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少年野球 小学生から始まる野球は、しばしば「日常のすべて」を占める。放課後や休日をグラウンドに捧げ、父母もまた応援や送迎に巻き込まれる。この段階で、野球は単なる遊びから「生活リズムそのもの」へと昇格する。
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高校野球 甲子園を頂点とする全国大会は、日本社会において「青春の総決算」として位置づけられている。多くの若者にとって、野球は単なる競技ではなく「人生の意味を凝縮した舞台」となり、その酩酊は地域や学校全体を巻き込む。
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プロ野球 ここでは才能と努力が選抜され、野球は「職業」へと変わる。ファンは選手の成績とチームの勝敗に一喜一憂し、選手は自己の身体を徹底的に管理する。勝利と敗北のサイクルそのものが酩酊の源泉となる。
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メジャーリーグ そして大谷翔平のように海を越え、メジャーリーグで活躍する者にとっては、野球は「国境を超える自己実現」の場となる。ここにおいて野球は完全に仕事と趣味の区別を失い、酩酊そのものとして存在する。
野球の歩みを追えば、仕事と趣味の境界は流動的であり、人生のステージに応じて野球は「遊び」「青春」「職業」「自己実現」と姿を変えつつも、人を酩酊に導き続けていることがわかる。
2. 釣り――自然との対話に没入する酩酊
釣りもまた、人を長時間没入させる代表的な趣味である。夜明け前に港へ立ち、寒風の中でじっと竿を握り続ける行為は、傍目には苦行に見えるかもしれない。しかし釣り人にとっては「水面に浮かぶウキ」や「糸を伝わる小さな振動」が世界の中心であり、その集中は時間感覚を消し去る。
魚が掛かる一瞬の衝撃は、射幸心と報酬系を同時に刺激する。これはギャンブル的な偶然性と、自然との一体感が融合した酩酊である。釣果が乏しくても「また次は釣れるはずだ」と思わせる力こそ、釣りの魔力だろう。
3. 鉄道ファン――記録と観察の酩酊
鉄道ファンは「乗る」「撮る」「集める」といった多様な没入形態を持つ。数時間かけて一本の列車を待ち構える「撮り鉄」、全路線を乗り尽くそうとする「乗り鉄」、あるいは切符や時刻表を収集するコレクター。
いずれも鉄道が単なる移動手段ではなく、対象そのものに快楽が宿っている点で酩酊と呼ぶにふさわしい。ファンにとって列車は「日常の背景」ではなく「世界の主役」であり、その一瞬を捉えるために日常を犠牲にすることも厭わない。
4. 創作活動――プロとアマを問わない酩酊
創作活動もまた、人を酩酊させる強力な対象である。小説、絵画、音楽、動画制作――その形態を問わず、創作は「無から有を生み出す」行為であるがゆえに、人を深い没入へ導く。
プロの作家や芸術家にとって、創作は職業であると同時に宿命であり、生活全体を巻き込む酩酊の形式をとる。彼らは締切や市場の要求に追われながらも、「書かずにはいられない」「描かずには死んでしまう」と語ることがある。そこには仕事と趣味の境界を超えた生の強度がある。
一方でアマチュアの創作者も、酩酊の構造においては本質的に同じだ。趣味として日記を書く人も、休日に油絵を描く人も、SNSに小説を発表する人も、没頭の瞬間には世界を忘れ、対象と一体化している。報酬の有無や肩書の違いではなく、酩酊の強度そのものが創作の核心なのである。
まとめ
野球、釣り、鉄道、創作――対象は異なっても、そこに共通するのは「時間と自己を忘れるほどの没入」である。仕事と趣味の区別は外的なラベルにすぎず、重要なのは「どの対象に酩酊できるか」という一点だ。
大谷翔平が野球に酩酊しているように、釣り人が海に、鉄道ファンが列車に、創作者が作品に酩酊する。その瞬間、人は有限な生の不安を超え、「生きている」という強度を取り戻す。酩酊対象を持つことこそが、人間の幸福の最も確かな証しなのである。