第2部│社会と権力の酩酊:⑤政治権力
執筆日: 2025-09-04
公開日: 2025-09-10
第5章 政治権力の酩酊
1. 問題提起
政治権力は、戦争ほど直接的に血を流さずとも、人間を酩酊させる強烈な力を持つ。指導者にとって権力は、統治の手段であると同時に「支配」と「承認」に酔わせる対象である。権力は本来、市民の利益を保障するために与えられるが、やがてそれは「権力を握ることそのもの」を目的とする。権力に魅せられたリーダーは、理性や制度を超えて酩酊に浸り、自己と国家を同一視するに至る。
2. 権力の依存構造
心理学的研究は、権力がドーパミン報酬系を刺激することを示している。強い権限を行使する経験は、快楽と自己効力感を高めるだけでなく、権力の喪失に対して強烈な不安と禁断症状を生み出す(Keltner, Gruenfeld & Anderson 2003)。このため権力は一度握った者を離さない。リーダーが「支配に執着する」のは合理的計算ではなく、神経生理学的に説明できる依存症の一形態といえる。
3. 承認への酩酊
権力の酩酊は「支配」だけでなく「承認」への欲望と結びつく。マックス・ウェーバーは支配の正当性を「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」の三類型に整理した(Weber 1922)。特にカリスマ的支配は、群衆の熱狂的承認を源泉とする。群衆に支持されることでリーダーは自己の存在を増幅させ、さらに承認を求めて酩酊を深める。これは民主制の選挙であれ独裁制の動員であれ、構造的に同じである。
現代社会ではSNSがこの承認の酩酊を加速させている。指導者の一言が瞬時に数百万の「いいね」や反応を生み出すとき、彼らはかつてない規模で「群衆の承認」という麻薬を享受している。
4. 哲学的視点
プラトンは『国家』において、支配欲に溺れた僭主を「理性よりも欲望に支配された人間」として描いた(Plato, Republic)。マキャヴェリは『君主論』において、権力を維持するためには恐怖と計算が必要であると説いたが、その背後には「権力そのものが人を酔わせる」という黙示的理解がある。
現代思想においても、フーコーは『監獄の誕生』などの権力論で、権力を単なる抑圧ではなく「人間関係に浸透する快楽」として描いた(Foucault 1975)。すなわち、政治権力は「支配される側の苦痛」であると同時に「支配する側の酩酊」でもある。
5. まとめ
政治権力の酩酊は、人類史のあらゆる政体に共通する暗い欲望である。指導者は支配の快楽と承認の陶酔に囚われ、権力そのものを目的化する。戦争の酩酊が「死と暴力を通じて生を感じる」狂気ならば、政治権力の酩酊は「支配と承認を通じて自己を増幅させる」狂気である。
権力は制度によって制御されるべきものだが、人間が酩酊に抗しきれない存在である以上、政治権力の危うさは常に歴史を脅かし続ける。
参考文献
- Foucault, M. (1975). Surveiller et punir: Naissance de la prison. Paris.
- Keltner, D., Gruenfeld, D. H., & Anderson, C. (2003). Power, approach, and inhibition. Psychological Review, 110(2), 265–284.
- Machiavelli, N. (1532). Il Principe. Florence.
- Plato. Republic. ca. 375 BC.
- Weber, M. (1922). Wirtschaft und Gesellschaft. Tübingen.