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Shin Sugawara // 菅原真

序章│酩酊とは何か

1. 問題提起

 人間はしばしば「理性的動物」として定義されるが、歴史の全時代において、人間を駆動してきたのはむしろ理性を超えた没入=酩酊であった。性愛、戦争、宗教儀礼、芸術創作、あるいは酒や賭博といった日常的実践に至るまで、私たちは自らを忘却させる何かに惹きつけられてきた。では、なぜ人間は酩酊を求めるのか。本章では神経科学的、生存論的、哲学的観点から酩酊を整理し、人類存在を解剖するレンズとして位置づける。


2. ドーパミンとエクスタシー:人はなぜ酔うのか

 現代神経科学によれば、人間の快楽追求は脳内報酬系に依存している。とりわけドーパミンは「快楽そのもの」を伝えるのではなく、「快楽を予期する状態」を強化する役割を果たす(Schultz 1997)。つまり人間は、実際の満足よりも「これから得られる」という予期の昂揚においてより強く駆動されるのである(Berridge & Robinson 1998)。

 この「予期的昂揚」は、対象に全的に没入し、自己を忘れる「エクスタシー(恍惚、忘我)」を誘発する。性愛における昂揚、戦場の兵士やリーダーの興奮、芸術家が創作に没入する状態は、いずれも報酬系の支配下で通常の理性が後退し、自己が一時的に外へ押し出される(Sloterdijk 2009)。したがって、酩酊は嗜好の逸脱ではなく、人間の神経生理に組み込まれた普遍的行動様式である。


3. 有限性と酩酊:終わりを知るからこそ没入する

 だが、酩酊の根拠は生理学にとどまらない。人間は「死すべき存在」であることを自覚する稀有な動物であり(Heidegger 1927)、この有限性の認識が恒常的な不安と虚無を生み出す。キルケゴールが論じたように、絶望は「自己と世界の有限性」を知ることから生じ(Kierkegaard 1849)、その解消は「自己忘却」によって一時的に達成される。

 現代の実存心理学もまた、死の自覚が人間に不安をもたらし、その対処として人は没入的活動を選ぶと指摘している(Yalom 1980)。すなわち、戦場でリーダーが「勝利」へ執着し酩酊するのも、芸術家が作品に没頭するのも、有限性から逃れるための存在論的戦略なのである。


4. 酩酊は「生の強度」の証

 以上を踏まえると、酩酊は単なる逸脱や弱さではなく、人間が「生を強度あるものとして実感する」瞬間であるといえる。

  • 神経科学的には、報酬系による予期的昂揚
  • 実存哲学的には、有限性からの逃避と忘却
  • 社会学的には、集団的な高揚としてのエネルギー(Durkheim 1912)
  • 哲学的には、余剰の力が生を溢れさせる契機(Bataille 1947)

 現代哲学者ハン・ビョンチョルが「疲労社会」において酩酊や没入が失われ、生の強度が低下していると論じるように(Han 2010)、酩酊とはむしろ人間にとっての活力の源泉なのである。以降の議論では、性愛・戦争・宗教・芸術など具体的領域における酩酊を追い、人類史を形成してきたその構造を解剖していく。


参考文献

  • Berridge, K. C., & Robinson, T. E. (1998). What is the role of dopamine in reward: hedonic impact, reward learning, or incentive salience? Brain Research Reviews, 28(3), 309–369.
  • Bataille, G. (1947). La part maudite. Paris.
  • Durkheim, É. (1912). Les formes élémentaires de la vie religieuse. Paris.
  • Han, B.-C. (2010). Müdigkeitsgesellschaft. Berlin.
  • Heidegger, M. (1927). Sein und Zeit. Tübingen.
  • Kierkegaard, S. (1849). The Sickness Unto Death. Copenhagen.
  • Schultz, W. (1997). Predictive reward signal of dopamine neurons. Journal of Neurophysiology, 80(1), 1–27.
  • Sloterdijk, P. (2009). Du mußt dein Leben ändern. Frankfurt.
  • Yalom, I. D. (1980). Existential Psychotherapy. Basic Books.

シリーズ目次:Human Intoxication(人類の酩酊)