第2部│社会と権力の酩酊:⑥経済
執筆日: 2025-09-04
公開日: 2025-09-11
第6章 経済の酩酊――ギャンブル・投資・金銭欲
1. 問題提起
人類は経済活動を通じて生存を維持してきたが、貨幣や富が単なる交換手段にとどまらず「酩酊の対象」と化すとき、経済は社会を狂気に導く。ギャンブル、投資、金銭欲、そして事業の陶酔は、偶然性と報酬予期に支配され、人を時間も自己も忘却させる。ここでは、経済を媒介とする酩酊の構造を解剖する。
2. ギャンブルの酩酊
ギャンブルは偶然と報酬が結びついた典型的な依存症モデルである。心理学者B.F.スキナーが示した「変動比率強化スケジュール(variable ratio reinforcement)」は、勝利が不確実であるほど人間はより強く行動を繰り返すことを明らかにした(Skinner 1953)。スロットマシンや競馬はこの仕組みに基づき、人間を報酬予期の渦に閉じ込める。
神経科学的には、ギャンブルは脳内報酬系の異常活性化を引き起こし、勝敗の結果よりも「次は勝てるかもしれない」という予期が強烈な快楽をもたらす(Clark 2010)。これは薬物依存と同じ神経回路に重なり、ギャンブルの酩酊を「社会的に許容された依存」として固定化している。
3. 投資の酩酊
近代以降、投資は経済発展の原動力となったが、それ自体が酩酊対象となるとき、個人と社会に破局をもたらす。株式市場の乱高下、仮想通貨のバブルは、「合理的な資産運用」を超えた「投機的陶酔」として理解できる。
カール・マルクスは『資本論』において、資本が自己増殖を繰り返す過程を「M-C-M’」として定式化し、その循環が労働や生産を超えて自律的に動くことを指摘した(Marx 1867)。この循環は貨幣を「生きた主体」と化し、人間がむしろ貨幣の運動に従属するという逆説を生む。投資の酩酊とは、貨幣が主体となり、人間がその踊りに酔い痴れる状態にほかならない。
4. 金銭欲の酩酊
アリストテレスは『政治学』において、金銭を「本来の使用価値を超えた蓄積対象」として批判し、過剰な貨幣追求を「不自然な営み」とみなした(Aristotle, Politics)。しかし近代以降、金銭欲は人類を駆動する普遍的欲望として社会を再編した。
現代社会における消費文化は、ジャン・ボードリヤールが述べたように「商品は機能ではなく記号として消費される」(Baudrillard 1970)。ブランドや高級品は「使用価値」を超えて「承認価値」を持ち、金銭欲を単なる蓄積ではなく「承認を得る酩酊」として強化する。
5. ビジネスリーダーの酩酊
経済の酩酊は、個人の欲望にとどまらず、ビジネスリーダーの存在様式としても現れる。イーロン・マスクが宇宙開発やAI、自動車産業に挑み続ける姿勢、孫正義が巨額の投資を未来産業に賭け続ける姿勢は、単なる経済合理性では説明しきれない。そこには「事業を通じて世界を変える」という陶酔がある。
ジョゼフ・シュンペーターは資本主義の原動力を「創造的破壊」と呼んだ(Schumpeter 1942)。この概念は単なる合理的イノベーションではなく、「破壊と創造に酔う企業家精神」の描写でもある。現代のビジネスリーダーは、その酩酊を通じて市場や国家をも動かし、経済の枠を超えた文化的・政治的影響力を行使している。
6. 哲学的視点
ゲオルク・ジンメルは『貨幣の哲学』において、貨幣を「究極の抽象化」と呼び、あらゆる価値を相対化する力を持つと論じた(Simmel 1900)。貨幣は一切の対象を交換可能にし、人間の欲望を無限化する。ここに金銭欲の酩酊の根源がある。
バタイユは「経済の彼岸」を探求し、貨幣や労働が蓄積ではなく浪費と祝祭に向かうとき、人間は生の強度を取り戻すと論じた(Bataille 1949)。すなわち、経済の酩酊は「無限の蓄積」と「破滅的浪費」という二つの極に人間を揺さぶる。
7. まとめ
経済の酩酊は、偶然に酔うギャンブル、未来に酔う投資、蓄積に囚われる金銭欲、そして未来を創造するという事業的陶酔として多様に現れる。いずれも貨幣と欲望の結合がもたらす強力な酩酊装置であり、個人を依存に導くだけでなく、国家や市場を揺るがす狂気へと拡張する。
参考文献
- Aristotle. Politics. ca. 350 BC.
- Baudrillard, J. (1970). La société de consommation. Paris.
- Bataille, G. (1949). La part maudite. Paris.
- Clark, L. (2010). Decision-making during gambling: an integration of cognitive and psychobiological approaches. Philosophical Transactions of the Royal Society B, 365(1538), 319–330.
- Marx, K. (1867). Das Kapital, Kritik der politischen Ökonomie, Band I. Hamburg.
- Skinner, B. F. (1953). Science and Human Behavior. New York.
- Simmel, G. (1900). Philosophie des Geldes. Leipzig.
- Schumpeter, J. A. (1942). Capitalism, Socialism and Democracy. New York: Harper.