終章│酩酊の出口
執筆日: 2025-09-04
公開日: 2025-09-15
1. 問題提起
ここまで見てきたように、人類は多様な対象に酩酊してきた。性愛、食、美、戦争、権力、経済、宗教、芸術、テクノロジー――そのすべては人間を時間の束縛から解き放ち、自己を忘却させる。しかし酩酊は同時に依存と破壊を孕む。人類にとって避けられない問いは、「酩酊をいかに選び、いかに終わらせるか」である。すなわち「出口」をどう設計するか、という問題である。
2. 出口なき酩酊の危うさ
歴史は「出口を見失った酩酊」の惨禍で満ちている。戦争リーダーは勝利の幻影に囚われ、国家を破滅へと導いた。権力者は承認に酔い、制度を腐敗させた。経済の陶酔はバブルと崩壊を繰り返し、テクノロジーの酩酊は人間を自己演出と承認ゲームに囚われさせている。
出口を持たない酩酊は、人間の強度を与えるどころか、文明を蝕む麻薬となる。
3. 出口の哲学
では、出口とは何か。
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有限性の自覚 ハイデッガーが「死への存在」と呼んだように、人間は有限であることを自覚したとき、はじめて酩酊を制御できる(Heidegger 1927)。終わりを知ることが、出口を設計する第一歩である。
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自己超克としての出口 ニーチェは「人間は超人への架け橋」と述べ、没入を破壊ではなく創造へと転化する可能性を示した(Nietzsche 1883)。出口とは、自己を失うのではなく、自己を超える方向に没入を導くことだ。
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共同体的調整 デュルケームやターナーが論じたように、酩酊は常に共同体的現象である。したがって出口もまた「社会的調整」を要する。制度や文化が出口を設計しなければ、酩酊は暴走する。
4. 実存的選択
現代人にとって重要なのは、何に酩酊するかを自覚的に選ぶことである。酩酊は避けられない。むしろ人間は「酩酊せざるを得ない存在」なのだ。問題は、その対象をどのように選び、どのように終わらせるかにある。
- 性愛の酩酊は、破壊ではなく親密と創造へ
- 食の酩酊は、病理ではなく節度と歓びへ
- 芸術の酩酊は、逸脱ではなく真理の開示へ
- テクノロジーの酩酊は、依存ではなく自由の拡張へ
出口を意識することで、酩酊は浪費ではなく「経験」へと変わる。
5. おわりに ―― 酩酊する人類へ
人類史は酩酊の繰り返しであった。だが、出口を意識しない酩酊は破滅をもたらし、出口を設計した酩酊は文化と文明を築いてきた。
人は酩酊に抗うことはできない。ならば、私たちが選ぶべきは「どんな酩酊に身を委ね、どこで出口を見出すか」である。酩酊の選択と出口の設計こそが、人間に与えられた自由であり、責任なのである。
参考文献
- Heidegger, M. (1927). Sein und Zeit. Tübingen.
- Nietzsche, F. (1883). Also sprach Zarathustra. Leipzig.
- Durkheim, É. (1912). Les formes élémentaires de la vie religieuse. Paris.
- Turner, V. (1969). The Ritual Process: Structure and Anti-Structure. Chicago.