序章│エロス・ゲートウェイ構想とは
執筆日: 2025-09-03
公開日: 2025-09-17
ネットニュースや報道番組から流れてくる断片に、私はいつも息苦しさと哀しみを覚えてきた。
パパ活、シュガーベイブ、そして新宿・歌舞伎町のトー横に集まる未成年。
そこに映し出されるのは軽薄な享楽ではなく、むしろ必死に何かを掴もうとする若い人々の姿であった。
とりわけトー横の若者たちは象徴的である。
彼らがそこへ向かう背景には、親の無関心や家庭での疎外感がある。
学校にも家にも居場所がなく、最後にたどり着いたのがトー横だった。
そして皮肉にも、そこで同じ境遇の仲間と出会ったとき、彼女たちは初めて「ここなら自分がいていい」と心から安堵するのだ。
同じように、ネグレクト(育児放棄・子育て放棄)に晒される子ども、障害を抱えた子を支え続ける親の苦しみもまた、報道の片隅で語られている。
一見バラバラに見えるこれらの問題に共通しているのは、社会が構造的な補完を怠り、責任を個人や家族に押し付けてきたという点である。
──本当に彼女たちや彼らが悪いのか?
──それとも、性愛と家族のあり方そのものを社会が歪めてきたのではないか?
この問いが、「エロス・ゲートウェイ」構想の出発点である。
エロス・ゲートウェイとは何か
エロス・ゲートウェイは、単なる風俗制度改革でも、観光戦略でもない。
それは 愛と性愛をパラダイムシフトする議論の入口 である。
- 性愛は酒と同じく「禁止」ではなく「管理・課税・文化化」によってこそ健全化できる。
- 家族は愛情の場として尊重されるべきだが、性愛と養育を独占させる制度は、一部の人々の心身健康被害・人命被害を生んでいる。
- したがって、性愛と家族の制度を分離し、再設計する必要がある。
議論の条件
ここから先の章では、あえて一つの条件を設ける。
それは 「現在の常識や倫理観を完全に棚上げする」 ということだ。
- 結婚制度は自明の前提ではない。
- 親が子を育てることも、必然とは限らない。
- 性愛と金銭の関係は、不道徳とも限らない。
常識は時代の産物である。
100年前の人々が進化論を裁いたサル裁判(進化論裁判)で常識と非常識が逆転するきっかけになったように、私たちの性愛や家族観もまた、未来から見れば錯誤である可能性がある。
エロス・ゲートウェイは「入口」である。
私たちはこの扉を開き、性愛と家族の再設計は待ったなしの緊急課題であるという、人類にとって避けて通れない課題に踏み込まねばならない。