Logoseum│博語館

Shin Sugawara // 菅原真

通勤という名の静かな交流

 通勤時間には無数の物語が隠れている。毎朝自宅近くの歩道ですれ違っていた少年がいる。初めはブカブカの制服が目立ち、うつむきがちでどこか頼りなげだったその少年は、やがて制服を着こなす高学年へと成長していった。そしてある時からぱったりと見かけなくなり、きっと中学校を卒業して高校に通い始めたのだろうと想像する。

 また、自宅と職場の最寄り駅と通勤時間が完全に一致する女性ともーーもちろん、言葉を交わすことはなかったがーー毎日互いの存在を無意識に確認し合っていた。驚くことに職場の位置までほぼ同じだった。競歩でもやっていたのか?と感心するほど、彼女の歩きは人並外れた速度で、彼女が私の次の電車に乗った場合には、ものすごいスピードで地下通路で私を追い越していくのが日常だった。彼女もまた、コロナ禍後に姿を消したため、転職し引っ越したのだろうと推測している。私がストーカー気質だって?それは違う。想像してみて欲しい。ほぼ毎日、徒歩で何人もごぼう抜きする2倍速歩きの若い女性を通勤経路で見かけたら、鮮明に記憶に残るだろう?

 こうした交流は期間限定であり、互いの名前すら知らない、言葉もない関係だ。それでも日常のリズムを共有することで、無言の繋がりが確かに生まれる。そして、それが失われた時、私は初めてその繋がりの存在を強く意識することになる。

 名もなき人たちとのこうした静かな交流は、都会の日常に埋もれて見落とされがちだが、私たちが他者の存在を無意識にでも認識している証拠なのだろう。そしてそれは、自分自身もまた誰かの生活の中で、名もなき存在として静かに通り過ぎていることの気付きでもある。

 日常の中に潜むこうした小さな喪失感や切なさが、都会という舞台のリアリズムをより深く、豊かなものにしているのだと思う。